★畳の歴史
- 奈良時代(710〜794)
現存する畳の古いものは、奈良東大寺の北西にある正倉院に聖武天皇が使用された「御床畳」(ごしょうのたたみ)と言うのがあり、木製の台の上に置かれ寝台として使われたものである。これは現在の畳と同じように真薦を編んだ筵のようなものを5〜6枚重ねて床として、表にイ草のコモをかぶせて錦の縁をつけたものである。この台を二つ並べてベッドとしていた。(2370×1190×385mm)
- 平安時代(794〜1192)
この時代に入って貴族の邸宅が寝殿造の建築様式となると、板敷の間に座具や寝具などとして畳が所々に置かれるようになった。この置き畳として使われている様子は絵巻物等に描かれている。そして使う人の位によって畳の厚さや縁についての規定があり、その種類によって使う人も決まっていたのである。
京都御所の清涼殿は寝殿造を今に伝える建物として知られているが、ここに使われている畳は平安時代の古い制度を残している。
「夜御殿」(よんのおとど)は天皇の寝室で、部屋の中央に繧繝縁の厚畳二枚を敷き、その上にさらに一枚置いて、そのまわりを大宋屏風で囲ってある。(230
×835×90)
「昼御座」(ひのござ)は繧繝縁の厚畳二枚を並べて敷き、上に御茵が置かれ、儀式のときだけ御座されたと言われています。(1915×950×95)
- 鎌倉時代(1192)〜室町時代(1338)〜江戸時代(1603)
やがて鎌倉時代から室町時代にかけて書院造が完成される。この頃になると部屋の周囲に畳を敷き、真ん中を残す使い方から、部屋全体に畳を敷きつめる使い方になった。
それまでの客をもてなす座具であった畳が、建物の床材になり始めてゆきます。
こうした贅沢な使い方が出来るのは貴族でも一部で、富の象徴であったようです。
畳が貴族階級に普及し始めると、今度は畳縁の文様によって座る人の階級を規定したのである。それは「海人藻芥」(あまのもくず)(1420)に使用規定が記されている。
天皇は当時でも貴重な最高の織物である繧繝錦の繧繝縁が用いられ、又神仏の前に座る半畳にも繧繝縁が使われた。ついで親王や大臣は大紋の高麗縁。公卿には小紋の高麗縁で、僧正や僧侶や四位、五位の人は紫縁。六位の侍、寺社を統領する三種の役僧は黄縁を使うように定められていた。
この頃になると布団と畳の役割が分かれ、小さな部屋割りになって、畳を敷きつめるようになる。
- 桃山時代(1573〜1603)から江戸時代へと移るにしたがい、書院造は茶道の発達によって軽快な書院造それは本格的な格式ばったものではなく、茶室の工夫や手法を取り入れた数寄屋風の書院造になっていきました。茶室建築から畳はやがて町人の家に引き継がれてゆき、畳が一般庶民のものとなったのは、江戸中期以降のことであり、農村においてはさらに遅く明治時代になってからである。
「起きて半畳、寝て一畳」
「千畳敷に寝ても一畳」
「畳の上の水練」
「新しい畳でも叩けば埃がでる」
「女房と畳は新しい方がよい」
このような故事が生まれるほど、一般に普及したのである。この頃長屋では、畳は長屋を借りる店子が運び込んで使ったと言われており、大家が用意しておくものではなかった。それだけに畳の手入れをして長持ちさせる知恵を身につけていた。
畳み干しをこまめにして、傷むのを防ぎ、表がやけたら裏返しをして使っていた。こうした習慣は戦後まで続いたが、過密化した最近の都市では干す場所もなく、家具も多くなって畳を上げるのが面倒になり、姿を消しつつあるのである。
★畳職人の呼び名
鎌倉時代 −−−−− 畳差・畳刺
室町時代 −−−−− 畳大工
江戸時代 −−−−− 畳師・畳屋
明治時代 −−−−− 畳職
昭和の戦後 −−−− 畳工
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